現状維持か変化か

最近、旅行に行って1年ぶりに会ってなかった友人と会った。

 

彼(友人)に1年間あんまり変わってないと言われ、お前は変わらずそのままで良いのか?と問われた。

 

余計なお世話だよ!!と言いたい気持ちが湧いてきたが、事実僕は1年前と大して変わっていないよなあと自分でも思った。

 

特に、僕の引っ込み思案なところや、コミュニケーション能力の低さについて指摘を受けた。恋人のできない理由もそういうところなんだぞと批評を受けた。

 

僕は、別にコミュニケーション能力が低くったってそれを受け止めて過ごせばいいじゃないかと思う。

 

が、しかしもっと人と話す能力を身に着けて、より多くの人と関わったり、人間関係を円滑にしたいという気持ちはある。

 

正直、友人の意見は僕にとって「ごもっとも」な意見であった。おまけにその友人は僕からすると自分の意見をしっかりと言うし、ぼくなんかよりずっとさまざま人と付き合える人間である。うらやましい…

 

僕はどうも人の目が気になってしまう。

 

それ故に自分の本音を出したり、感情を表に出すことがどうも苦手である。

 

自分の感情をオープンにすること=良いこと

とは思わないし、己の本当の気持ちを出すことで相手に自分の本当の気持ちが伝わって人間関係における不自由なことが減るというメリットがあるように感じている。

 

この1年で、自分のマイナスな面を認めて、そんな自分のままでいいと思うように努力をしてきた。

 

でも、僕の本心は「もっと外交的で自分らしさを外に出して生きていきたい!!」と言っているのだ。

 

ただ、心の中では「内向的で自分の本心をさらけ出さない方が生きやすいんじゃないの?」とも思っている。

 

理想と現実の自分のすり合わせに困る。

 

友人のおかげで蓋をしていた自分の本当の心に気が付けたのだが、せかく日々を過ごしやすくするために蓋をしていた気持ちが顔を出してきた。

 

とりあえず、僕のコミュニケーション能力不足は大きな問題なので、そこを直していきたいと思う。

 

現状維持ではなく、日々成長して変化することを恐れないようにしたい。思考についての本でも買ってみよう!

不思議

久しぶりの更新です。

前回の更新が去年の4月ということに驚きました。

以前の記事を読むと、まるで穴の中に隠れてしまいたくなるような文が綴られていて赤面せざるを得ないです。

何年かたってから、日記のように見返すのに利用したいです。

 

私事ですが、今年はとある理由で生活がガラッと変わるため、リフレッシュの意味もあり貯金を切り崩して旅に出ておりました。

おかげで、去年の記事のように自分の中のモヤモヤと格闘する時間が少なく済み、非常に楽しい時間になりました。

旅行後も、友人とお出かけして、愉快な日々を送っておりました。

 

予定を詰め込んでいるおかげで、去年の自分のように自分と対話する時間が減っている気がしています。ネガティブに浸る暇がないことの良さを実感しています。

 

ですが、今度は旅行の浮ついた気持ちや、気の合う友人と遊んでいるときの感情が、自宅にいるときも消えないという問題が発生しています。

 

まるで、楽しい夢を見た後の高揚が起床後も残っているような感覚が1.5日ほど続いているのです。

 

4,5泊した修学旅行後のことを思い出しました。

 

いつまでも浮ついた心のままではいれないと焦りを感じています。

 

そこで、かつて自分のネガティブな感情を吐き出すために使っていたブログのことを思い出しました。

 

文章を打ち込み、自分の心の中のことを考えているうちに現実へと戻れる気がして、ブログを再び更新しました。

 

ブログの更新が止まっていた一年で変わったことや、気づいたこと、体験したことが幾つかあるので、暇があればそのことについて書ければいいなと思っております。

 

それでは!

僕が小学生の時に「ミッケ」という本が流行った。中休みになるとクラスの数人で図書室へ向かい、ミッケを開いたことを覚えている。

 

ちなみに、ミッケとは本の中に隠れているお題を探す絵本である。ポケモンを探せ!シリーズと似てる。

 

ミッケはジオラマの写真の中からお題の物を探す。これが意外と難しい。3人で探しているはずなのに2,3分の間見つからないことがある。久しぶりにやりたい。

 

僕はこのミッケシリーズを小さいころに見たせいか、ジオラマやミニチュアの写真を見るとなんだかワクワクしてしまう。

 

ミッケのジオラマは、玩具や文房具、作り物のキャンディなど、様々なものを配置して街だったり家を作っている。このミッケの世界観が独創的で、とってもファンシーで好きだ。

 

なんでジオラマが好きなんだろ?と考えたときに真っ先にミッケの世界観が頭の中に浮かんだ。そっか、ミッケのもつジオラマでしか表現できない、空想のようなあの世界観が好きなんだろうな、と考えた。

 

もちろんミニチュアやジオラマの持つ特有の「非現実的な雰囲気」が好きなのが、僕のジオラマが好きな理由の一つだった。けど、その理由はもう一つあった。

 

とあるジオラマを見てそれに気が付いた。

 

それは、孤独死をした方の部屋を再現したジオラマであった。

 

山のように積まれたごみが積まれ、足場のないような部屋や、人間であったものが溶けてしまい、赤褐色の液体で満たされたカビだらけの浴槽のジオラマをニュースで見た。

 

そこにあったのはミッケのように心躍る空想の世界じゃなくて、冷たいリアルな世界だった。

 

不謹慎だけど、すごいと思ってしまった。精巧な作りのジオラマを見て感心した。

 

作品を作るのにどんなことをして、どのようにミニチュアを配置していたかを想像した。完成までの道のりがどんなものであったか興味深かった。

 

僕は、ジオラマを作る過程を想像し、その努力を感じることが好きなのだ。

 

ジオラマは世界を作っている。それは夢のような街だったり、亡くなってしまった方々の家だったり様々だ。

 

僕はそんなジオラマに収められている小さな世界が見せてくれる景色が好きだ。

 

小さいけれど、そこには作った人の思いだったり頑張りが中に詰まっている。小さいけれどその中に含まれているエネルギーはとっても大きい。そこにあるエネルギーは僕の心を動かしてくれる。

コミュ力チャージ

僕は面識の薄い人と話そうとするとどうしても気が引けてしまう。話せないというわけではないのだが、話す前にいったん勇気を出して、覚悟を決めて話しかけてしまう。僕だけでしょうか?

 

話す対象が、自分にとっての嫌いな人の雰囲気を纏っているのなら、話す前に緊張してしまうかもしれない。実際に僕も、あまり好きではない人と話さなくてはならなかったときに、顔色をうかがいながら話していた記憶がある。

 

ただ、「仲良くなってみたい人」に話しかけたくても、僕は話す前に勇気をだして話しかけてしまうのだ。

 

接点の少ない人に対して、興味があるからただなんとなく話しかける。というのがなかなかできない。

 

大学生の時に、研究室が同じで何回か顔を合わせた男の子がいた。彼と出会って2,3週間の期間は、話すために理由を考えてから話しかけていた。当時、耳の裏に吹き出物ができていたのでそれを理由に話しかけたことがある。突然、「俺の耳の裏になんかできてない?」と話しかけてきた僕はさぞ不審な人間であったでしょう。

 

あの人前に同じ教室にいたよな、話しかけようかな...。でも話す理由なんてないしなあ、あっ、どっか行っちゃった...。という経験が何度かある。不信感がないように相手の動きを目の端っこで追いかけて話しかけるチャンスをうかがっていた。怖いよ。

 

きっと幾度となくそういったチャンスを逃して生きてきた。もしかしたらあったかもしれない出会いを逃して今がある。

 

だからといって不便なことはないけれど。多くの人と話せることは凄いことだと思うし、話す力を身に着けることに繋がると思う。難しいんですけどね。

 

そんなコミュ力不足を感じている人に聞いてほしい曲が一曲ある。

 

キリンジの「ザ・チャンス」という曲だ。人によって歌詞の解釈は様々だと思うけれど、僕はこの曲を「細かいことは気にせずとりあえず外に出ろ!」という応援歌みたいなものだと思っている。

 

歌詞の中に

どこかで何かが君を待ってる

教えきれないニュースの海原を

どこかの誰かと巡り会っていく

胸躍るようなスタイルで行こうじゃないか

 

というフレーズがある。

 

僕も、日々の中で出会う「誰か」と出会うチャンスを有意義に扱える人になりたいと思う。

 

コミュ力の高い人」が初対面の人と話す際はそんなことを気にしているのだろうか?すごく気になる。

out of 自意識

ふと、自分のブログでどんなことを書いていたのか思い出してみた。

 

自分の悩みや、自分がどんな性格か、過去のできごとについて。だいたいこの3つのどれかであることに気が付いた。いかに自分に対して考えているか、いかに内向的な人間であるか気が付いた。

 

じゃあ、俺以外の人について書いてみようかな!!と考えた。さっそくブログの作成画面に向かってみたけれど、脳内に文章は出てこなかった。

 

約2か月も自分に関してブログを書けるような人間である僕は、他人のこととなると全く文がかけないのである。

 

他人に対して無関心だから文がかけないんだろう、と思ったけれど、きっと違う。

 

関心はある。僕は他人に嫌われたくなくて、いい奴だと思われたくて、自分の意思を曲げつつ行動してきた。周りの人を気にして生きていた。

 

そんな人間が他人に関心がないとは考えにくい。

 

感心じゃなくて興味がないのかもしれない。

 

興味がないから他人についてわからないのだ。他人が僕に対してどう思っているのかがわからないから怖い。わからないからとりあえず都合のいい人であろうとしていた。

 

相手のことを知ろうとすればいいものを、自分の評価を知りたくなくて、他人を知ることを恐れてしまっていたのだ。

 

ブログを書いてきて、いかに自分が他人に対する興味がないのか分かった。そして、そのせいで自分が苦しめられたこともあったことに気づけた。

 

人に対して、都合の悪い人になるのは別に悪いことじゃなかった。むしろ自分の意思を曲げてまで都合に合わせる必要なんてない(すべてのことに言えるわけじゃないけど)。

 

僕は必要以上に他人からの評価を恐れた。それは自分自身の評価が高くなかったせいであったり、自分をけなすような人に出会ってしまったせいもあるだろう。相手から「イヤな奴」と烙印を押されたくなくてしょうがなかったのだ。

 

きっとこれからも自意識過剰な自分と向き合っていかなきゃいけないし、その中での自分との対話を繰り返していくと思う。

 

そんな対話を日記としてこのブログに書いていきたい。何年かして見直してみて、笑っていられるようにしたいと思うのである。

実際に占い師に占ってもらいたいこの頃

最近、最寄りの駅のそばにある商業施設で、占いをする人たちをよく見る。数年前まで、僕は「占い?当たるわけないでしょーが!そんなんにお金をかけてもしょーもないよ」と唾を吐きながら言ったと思う。

 

でも、以前に僕のブログに書いた「夢占い」の話を見た人は分かると思う。今の僕はそういう占いが嫌いじゃない、むしろ好きなんじゃないかと。

 

思い返せば、僕が占いに全く関心を示さなかったころの僕は、大きな悩みなんてなかったし、今と比較したらストレスが少ない生活を行っていた気がする。意味もなく一人で3時間ほど散歩していた。行動力も今よりあった。

 

ただ、夢占いを見るようになった数年前から、よく頭の中で自問自答を繰り返し、内向的になっていった。それぐらいの時期から、占いに目もくれなかった時期にはなかった「自分に対する悩み、不安」の存在に気付くようになった。

 

今の自分自身が何者か、何がしたいのか、何もできないんじゃないのか?と悩むようになってから、不安がガスのように、心の中に充満してきたことに気づいたのだ。

 

その不安は漠然としたものだった。ただなんとなく不安感が心の中にあるのだ。

 

その不安感を消そうと思って趣味に没頭しようとした。7年ぶりにプラモデルをつくってみた。楽しかった。けどプラモデルを作り終わると不安が邪魔してきて生活に集中できなかった。ダメだった。

 

僕よりも不安そうな人を探して安心してみようとした。周りを見てみると、いわゆる「リア充」みたいな奴らが目にはいってくる。わけもなく不安で人生が楽しくなさそうな僕と彼らを比較して寂しくなった。あと、自分より下を探して安心してやろう、という考えを持った自分がめちゃくちゃ矮小に思えた。ダメだった。

 

結局、不安はぬぐえなかった。その場しのぎの趣味で一時的に不安を消すことはできても、数分後に不安が湧き出てきた。

 

当時の僕は大学生だった。講義の成績も悪い、一緒に講義を受ける友達もいない、部活もうまくいかない、家の雰囲気も悪い。そんな状態だった。

 

そんな「当時」の自分は、明るい「未来」を想像できなかった。

 

だから占いに興味を持ったんだと思う。

自分の未来が描けなかったから占いで未来を見てみたくなったんだ。

 

とりあえず、夢占いをしてみた。当時の僕はよく夢を見ていたからだ。

 

夢占いをしてみて気づいたのだが、占い=未来を予想すること、ではない。占いによって今の自分がどのような状況であるか当てる(把握する)こともできるらしいのだ。

 

就職活動をしていた時に、殺人鬼に追いかけられる夢を見たのだが、どうやら何かに追いかけられる夢は「何か不安や焦りがあるとき」に見るらしい。

 

当時の僕はエントリーシートの記入に追われていたので、多分その焦りが「殺人鬼に襲われる夢」として現れたのだと思う。

 

追いかけられる夢を見た後に、前述した占いの結果を知った時に「占い面白っ!!」と思った。実際にエントリーシートの記入が間に合いそうになくて焦ってたし。

 

それまで、占い?下らん。と考えていた僕だったが、その経験を経て、占いに興味を持ったのだ。

 

もちろん、夢で未来を占おうとしたこともあったけど、当たってんだか当たってないんだかよくわからなかった。言葉にするのが難しい。「部分的にあってる」といった感じだった。アキネーターか?

 

最終的に何が言いたいのかというと、占いってロマンがあって面白いなってことである。

結論→理由→具体例

大学3年生の冬、友人2人とサークル帰りにファミレスで談笑していた時のことである。

友人は二人とも男性であり、片方は彼女ができたばっかりで、もう片方は、今付き合っている彼女と別れるか否かの瀬戸際の状態であった。

 

ちなみに当時の僕は彼女ができたことが一度もなかった。

 

彼らと恋愛トークをしていたのだが、やはり自分だけ彼女無しとなると話題に乏しい。というよりも、自分だけ「年齢=彼女無し」という状況のせいで、彼女ができたことのない自分に対する焦燥感や、二人に対する嫉妬がぽつぽつと心の中に降ってきた。

 

僕は友人になぜ僕に彼女ができないか聞いてみた。

 

友達はこう答えてくれた。

 

1.話の内容がよくわからないときがある。

2.身長が小さい

3.シンプルに出会いがない

 

2に関しては、学生のうちは外見を気にされるのは仕方のないことだから、他のことを頑張ろうと言われた。3に関してはマッチングアプリでもやりなさい、お前の周りに女友達がいる人が少ないのだから新しい出会いはそうでもしないと作れない。という結論であった。

 

ちなみに僕の学科の男女比率は9:1、高校時代の友人はほぼ(8割ほど)女友達はいない。よく友達の紹介で女の子と知り合う人がいるというが、僕からしてみれば無理であった。残念!!

 

さて、問題は1である。

 

話の内容がわからない、ということはつまり、話の内容の伝え方が悪く、相手に自分の話したい内容が伝わっていない、ということである。(多分)

 

僕はどうも話をするのが下手糞になってしまうときがある。ブログを書いているときもそうなのだが、頭の中で文章をまとめてそれを順序だてて話すのが苦手なのだ。話しているうちに何を話そうとしていたかわからなくなり、話の内容があっちこっちに変わってまとまらなくなるのだ。

 

最初に結論から話し、後から理由を言うなど、話の順番マニュアルを頭の中で意識するといい、と就職の手伝いをしてくれたあんちゃんが教えてくれた。このことを意識してから、少しは改善した気がする。

 

あくまで、「気がする」だけである。意識するようになったせいで話す際のレスポンスが遅くなったのは確かだが、前よりも考えて会話をするようになったのは確かである。

 

また、話の順序を意識してから、いかに自分が何も考えずに会話をしていたかわかった。友人との会話に思考なんて必要ないだろ!ノリやフィーリングで会話できるのが友達ってもんだろ!と言いたい人がいるかもしれない。それは会話力の高い者にのみ許された行為なのだ。

 

僕にゃ無理だった。友人だろうと先生だろうと家族だろうと、適当に会話したら意味不明な会話になってしまうノータリンが僕である。半年ほど前に、僕の父は温かいカフェオレの入ったマグカップを片手にコーラを飲みたいと言っていたが、そんな感じの会話になってしまうのが僕である。

 

ちなみに会話の方法を意識したからといって、別に女の子と仲良くなれたとかそういうオチではない。モテない男性のみんなは安心してほしい。僕は君の見方だ。